Mogicはかんがえる

少人数+ソフトウェア+サーバやロボットの組み合わせで
新しい時代の会社経営を進めています。
そのプロセスの一部をこのコーナーでお伝えできればと思っています。

代表取締役 山根陽一

2019.08.19

贈り物としての教育

Mogicでは、いろんな場面で教育っぽいことが行われています。

「教育っぽい」と曖昧な表現になっている理由は、授業のように確固たるカリキュラムや成果目標はなく、偶然の出来事にあわせてやり方が変化したりするからです。

MicroTechというアイデアサービスづくりだったり、ラッシーづくりだったり、ボルダリングウォールづくりだったり、いろいろ行われてきました。

ずっと昔からこのような教育を続けてきて、一言では表せない効果があることはわかっているのですが、実際なぜこのようなスタイルの教育をした方がいいのかは、それを実践している人たちの間でも明確に理解できていませんでした。

最近ある書籍を読んで、これかなあと思った箇所があったので引用してみます。

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うしろめたさの人類学
https://mishimasha.com/books/ushirometasa.html

学生は、大学の授業の内容なんて、やがて忘れる。

自分も大学で受けた講義の中身は、ほとんど覚えていない。

それがどんな役に立つのか、目に見える成果がいつあらわれるのか、教育にも、学生にも、前もってわかるものばかりではない。

おそらく学生に残るのは「熱」だけだ。学生のなかで、その「熱」が次のどんなエネルギーに変わるのか、教員の側であらかじめ決めることはできない。

そもそも学生たちは、何者にでもなりうる可能性を秘めている。

授業で語られる言葉、そこで喚起される「学び」は、相手の必要を満足させる「商品」ではない。

どう受けとってもらえるかわからないまま、なににつながるかが未定のまま手渡される「贈り物」なのだ。

中略

贈与だからこそ、そのための「労力」は、時間やお金に換算できないし、損得計算すべき対象でもない。

もし教育を市場交換される「労働」とみなせば、その「成果」がきちんと計量できない以上、最低限の労力しかかけない、というのがつねに「正解」になってしまう。

それだと「教育」は、とたんにむなしい作業になる。

実際はほとんど届いていないかもしれないし、贈ったつもりのないものが届いているかもしれない。

教員の側には、つねに「届きがたさ」だけが残る。

教育とは、この届きがたさに向かって、なお贈り物を贈り続ける行為なのだと思う。
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チームワークを重視している経営方針だからこそ、教育をスキル向上などの費用対効果でみていなくて、贈り物としてとらえているのかもしれません。

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