Mogicはかんがえる

『自分たちの好きなように会社を作っていけばいい。
他と違ってても、普通じゃなくても、信じられることをやっていく。
信じられること、それって案外と少ないものですから
そう、本当に愚直に、率直に、真摯にそれを探してきたんです』

代表取締役 山根陽一

2024.09.10

語るに語りにくいところ

これまで会社やビジネス、仕事を語るにあたり、どうもぼんやりしたところがあるように感じていました。

語るに語りにくいところって何なんだろうなと。

ところが、それをうかがい知るヒントは意外なところにあるものです。

医学関連の本にピンときた箇所があったので引用してみます。

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二つ以上の世界を生きている体 韓医院の人類学
キム テウ(著)、酒井 瞳(訳)
https://www.kashiwashobo.co.jp/book/9784760155675

身体で会社に通い、食事をし、映画を観てカフェに行く。

また、自らとは別の身体と共に生きる。

身体同士、表情や会話を交わし感情を伝え合う。

人はそのような身体を知っている。

身体が伝える感覚を知っており、痛みも知っている。

この痛みに対する知が束ねられてできた体系が医療だ。

どんな医療でも、身体の全ての状態を完全に説明できるわけではない。

これは、ある医療の限界の問題というよりは、さまざまな背景と側面をもつ身体という存在の問題だ。

したがって医療は、健康のための知と行為の体系以上の意味を持つ。

医療は基本的に、「規定」の体系だ。

医療は何を疾病とし何を健康とするかを規定し、その根幹には身体に対する規定がある。

人間の最も基本的な前提である身体が何であるかを示す医療は、まさに人間についての定義でもある。

西洋医学が注目する確実な対象たちを調べてみると、西洋医学が身体に対して一貫してもつ観点があらわれてくる。

対象は「独立体」なのだ。

ゆえに、それとそれ以外の事柄とのあいだで、分離が可能になる。

東アジア医学は、「固定」、「独立した対象」を強調するよりは、「流れ」と「状況」に深い関心を持つ。

韓医学には「通則不痛 不痛則痛」という有名な言葉がある。

通りが良ければ苦痛はなく、悪ければ苦痛があるという意味だ。

流れが順調であれば病はない。

苦しくなく、心地よい体だ。

しかし、流れが悪ければ健康は揺らぎはじめ、疾病に近づく。

韓医学の診断は、流れが悪い状況に対する考察だといえる。
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慣れ親しんでいる西洋医学以外にも、世界には多様な医療観があり、それらは独自に「規定」されている。

であれば、会社やビジネスも似たように「規定の数」だけ多彩な解釈や行動があってもおかしくない。

一緒にはたらく人やクライアントを独立した数字として取り扱う規定もあれば、全体として流れや滞りを見ていく規定もある。

おそらく語りにくさは、異なる規定を超えて伝えようとする難しさ。

もちろんどんな規定に立つかは自由だし、僕らは自分たちが心地よく感じられるように知と行為を好き勝手に体系化する。

そうして気がついたら20年、30年経ってた、となるのがいいですね。

最後に先の引用より少し拝借して書き直しますと

“人間の最も基本的な前提である身体が成し遂げる社会的な活動(仕事)とは、まさに人間についての定義でもある”

2024.09.03

その名は「アグレッシ部」。

マーケットディレクション、ベーシックエデュケーション、イノベーション&プロデュース。

Mogicには、聞き慣れない部署名がたくさんあります。

これは名前遊びをしてるわけじゃなくて、実体に合わせようとしたらこうなっただけなんです。

ディレクターの機能だけだと自分たちのサービスを展開するにはちょっと物足りなかったのでマーケティングの要素を加えてマーケットディレクション部門となり、専門的な技術は各部門で学ぶけど、チームでのコミュニケーションや個人ごとの性格を見るといった土台(ベーシック)の力は組織を超えて見た方がいいとしてベーシックエデュケーション部門ができました。

過去に例のない試みなので、うまくいく事ばかりじゃありません。

むしろ物議を醸した部門もありました。

そのうちの一つ、名は体を表す、そのまんまの「アグレッシ部」です。

ネタっぽいと思われがちですが、本当に実在してました。

インターン生とプランナーが中心となって、いざ積極果敢に社内をロビー活動する部隊として。

ちょうどその頃(10年前ごろ)は組織化が進んでいたので、部門のタコツボ化を阻止しよう!部門間の垣根を取り払おう!と鼻息が荒かったんですね。

そうした使命を忠実に守り、しばしば他部門にお邪魔しては場をかき乱していました。

ミーティング中にドアを開けて「頼もうっ!」と闖入し、いきなり挑戦状にも似たプレゼンテーションをぶちかます。

「よく聞けよ、お前たち」から始まる、謎めいたマウントフレーズ。

そりゃ、当たり前なんですが、みんな唖然、呆然とするんです。

・・・ぅうむ、違うやり方あったかなあと今さらながら思いますが、たまに笑い話として登場するのでいい経験だった、、、ということにしています。

2024.08.26

ルールを教えてくれない世界

資本主義で生きていく。

日本では息をすると同じぐらい当たり前に聞こえます。

だとして、もしあなたが誰かに「資本主義のルールと動き方を教えてください」と聞かれて、すんなり答えられるかどうか。

ふ〜ぅと長いため息をつくぐらい、僕はあんまり自信が持てません。

サッカーをしていく、で例えてみると

ボールは1個で、手は使っちゃダメで、足や頭でボールを運ぶ、敵のゴールは一つ、フォーメーションはこうとか。

うまく説明できるかどうか、怪しいものです。

仮に10年サッカーをやっていたとしても、競争の激しいトーナメントを勝ち上がれるかは別の問題です。

つまり、わかりやすいルールが定められているゲームでさえ、うまく説明して、うまくやり抜くのは難しいもの。

であればなおさら資本主義という、誰もルールを教えてくれない世界でどうやっていくのか。

不登校、内申、受験、ガクチカ、就活、やりがい、職歴、出会い、投資、職場、通勤、家族、保険、居場所、肩書、転職、健康、起業、介護、年金。

毎月、毎週いろんな相談を受けますが、最後はそこ(資本主義のルールをうまく把握しにくいこと)から問題が派生している気がしてなりません。

2024.08.19

絶えることなくシステムを作る

Mogicでは年がら年中、絶えることなく色んなシステムを作っています。

最近だと金曜に出社するインターン生が中心となって、スイーツ・スクラッチくじプロジェクトを進めていたり。

なんでそんなものを作ってるの?と思われるかもしれませんが、社内では取り寄せたスイーツの分配が一大事なのです。

「届いたスイーツをそのまま配るんじゃダメ。間合いをとって、オモシロおかしく、かつフェアで納得感があるように配ること。そして楽に運用したい」

そんな無理めな命題に、学生たちが頭をしぼって取り組んでいます。

はじめて顔を合わせた学生5人、エンジニアからセールスまで部門はバラバラ、誰がどう意見をまとめるのか、プレゼンではどうアピールすべきか、そしてもらったフィードバックをどう解釈するのか。

最初の2回でコンセプトや実装を練り上げ、残り4回の出社で作り込んでリリースまで行くことになりました。

不安でしょうがない人、ぜんぜんイケるよという人、目の前で精一杯な人。

次々と崩れていく足場によろめいたとしても、お互いを信じることができるなら、きっと記憶に残るものが出来ることでしょう。

【後日追加】インターン生が書いたMicroTechの記事
https://lantern.mogic.jp/a/14049
https://lantern.mogic.jp/a/14055
https://lantern.mogic.jp/a/14063

2024.08.05

信頼できる人であること

幼稚園の年少クラスから中学生くらいまでの子どもへの接し方。

今どきの、という枕詞が子どもへの向き合い方をさらに難しくしているように感じますが、とても分かりやすい本があったので(著者への敬意ゆえ、本来の引用文法からズレて)ちょっと長めに引用します。

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子どもが嫌いなおとな
珠藻留意(著)
https://mangabito.biz/?p=17236

子どもに対してマウントを取りたい大人もいます。

これはその後の指導や授業などで指導者や先生が主導権を持ちたいからだと思います。

ですが、人によっては逆効果です。

子どもたちはマウントをとらなくても信用できる人の言うことは聞きます。

楽しい人や親身になってくれる人も好きです。

ですが、昔の武勇伝を語る人や、自分の教え子にこんな有名人がいるというような自慢話に興味はありません。

男女間の会話でも同じようなことが言われることがありますが、「自分がすごいという自慢話」「昔悪かった話」などは好きだと思っている異性に聞かされているうちは凄いと思う人もいると思いますが一般的には聞いている方は疲れます。

特に昭和や平成初期の少し乱暴なお話は、子どもだけでなく、子どもからその話を聞いた保護者からも嫌がられるはずです。

なにか問題があったときは「あの先生(指導者)は以前こういう話をしていた」と真っ先に疑われることにもなる可能性もあります。

少しできるようになった子どもを褒めないで「まだまだだな」という態度もよくありません。

ちょっとでもできたら褒めてどんどん調子に乗らせて上達させる方法もあります。

そこで否定的な話をして「認められたい」と思うような職人思考の方向に持っていくというのは「特待グループ」などの特別優秀な子どもの集まり等でなければ難しいと思います。

そこまでのクラスになれば負けず嫌いと目標意識の高い子の集団になっている可能性が高いからです。

その競技や楽器、学習のはじめに大人の不必要な意識付けは子どもたちの興味を削ぎ、場合によっては反抗心を起こさせてしまいますので気をつけましょう。
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読んでいくうちに、今どきの子どもだけじゃなくて、今どきの会社経営も同じなんじゃないかなと思えてきます。

壮大な目標がもたらす達成できなさを利用して「認められたい」という条件反射を引き出そうとすれば、「はぁそうですか」とすぐに作為を見透かされるでしょうし、今を生きる彼らにとってリアリティのない5年前、10年前の武勇伝や自慢話なんて(リアルタイムこそリアルなんで)聞きたくはないでしょう。

いつの時代だって立場やカタチは変われど、感じている時間軸やリアクションは変われど、最後は信頼できる人であること。

それは普遍的にそうなんだろうと思っています。

2024.07.30

選び取る、選び取らない

あらゆるものがサービスとして提供される現在、「選び取る」ことがごく当たり前の行為になりました。

当たり前すぎて何いってんだかと言われそうなぐらいです。

ちょっとあげてみると

子どものために良さそうな塾を探して、選び取る

家事を助けてもらうサービスを探して、選び取る

楽しめるようにネットで映像を探して、選び取る

キャリアアップのためにMBAスクールを探して、選び取る

遠くの両親のためにサポートサービスを探して、選び取る

自分の老後のために運用するサービスを探して、選び取る

ほか、たくさんあります。

これらのアクションに共通するのは、「リストアップと比較」ということ。

もう少し掘り下げると、ゴールに最短距離でたどりつこうとする思考スタイルがベースにあるように思います。

やるべきことが多く、時間が限られていますから自然とそうなります。

しかしながら、やがて日々あれやこれやと選びに選んで選びすぎて「選び取る」こと自体に疲れてしまったらどうしたらいいものでしょうか?

極端な方向性を二つほど思いつきます。

一つは、選ぶ=リストアップと比較という作業すらなくしてしまう。

要は「レコメンド(推薦)」「テンプレ(定型)」「ルーティン(日課)」化を推し進める。

もう一つは、選び取ることの反対で「選び取らない」こと。

外部のサービスを使わない(つまり、第三者による補助がない状態)となるので、とにかく自分でやっていくしかなく時間も労力もかかりますが、仕方ありません。

そうはいっても悪いことばかりではありません。

自分でやればできることは限られるわけで、ちょっと欲張っていたかなと思いなおし、なすべきことをグッとしぼれたりするんですから。

2024.07.24

らしい絵を描いたらいい

オフィスのとある部屋で模様替えをしたら、黒くて大きな壁が見えるようになりました。

内装工事したのはもうずいぶんと前ですから、モノがぶつかって擦れた跡がどうしても目立ちます。

ふうむと眺めてから、黒か白かで塗り直そうと思った矢先、先日読んだ本の一節がさなりと蘇ってきました。

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地下世界をめぐる冒険
ウィル・ハント(著)、棚橋 志行(訳)
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=971

一万四千年前、最後にこの洞窟へ入ったマドレーヌ人がたどった道に私たちはいた。

一万七千年前から一万二千年前まで続いたマドレーヌ文化は、ヨーロッパ先史時代にひときわ光彩を放つ。

これに先立つソリュートレ文化期(二万二千年前から一万七千年前)とグラヴェット文化期(三万二千年前から二万二千年前)にも、それぞれに輝きを放った時期があった。

彼らは優雅な石器を作り、尻を強調したヴィレンドルフの女神のような、小さく持ち運び可能な美しい像を彫刻し、有名な〈ショーヴェ洞窟〉に息を呑むような動物たちの壁画を描いた。

しかし、マドレーヌ人は名匠だった。

旧石器時代のフィレンツェ・ルネサンスと言ってもいい。

彼らが〈ラスコー〉と〈アルタミラ〉で描いたトナカイとバイソンはあまりに精妙で、とても古代の産物とは考えられず、初期の考古学者はでっち上げと断言したほどだ。
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汚れたからといって、ただ塗り直せばいいってものじゃない。

いつも見ている壁こそ自分たちのスタイルを表す場所なんだから、らしい絵を描いたらいい。

そう、設立15周年の記念、これにかこつければ。

と、いうことでオフィスに壁画を描くことになったのです。

2024.07.16

そんな時、そんなところに

年に何度か「うちの子、インターンとして働かせてもらえませんか?」と相談を受けます。

そんな時「いやあ、フローとして僕はまったく(採用するしないの)裁量がなくて。お手数ですが、サイトからご応募ください」とお伝えしています。

本当に学生の採用に関わっていないので申し訳ないのですが、それにしても親御さんの不安そうな口ぶりがいつも心に残ります。

小学校、中学校という義務教育を経て、高校、専門学校、大学と進んでから就職していく。

20歳前後の若者に、親ができること。

あんまりないんじゃないかな、嫌がられそうだし。

そんな気がしていました。

ですがもし、と考え始めると、違うように思えてきます。

もし親御さんの耳に何もかも市場に組み込んでいくネオリベラリズムの速歩(はやあし)が地鳴りのように響いているとしたら。

何もかも市場に組み込まれる、つまり子どもたちの生きる道が数字として相対化され、絶えず競い合っていくしかないとしたら。

そんなところに子どもたちを送り出したくはないが、避けられないなら先んじてうまく社会に立たせてあげたい。

そんな想いが透けているなら、これは社会に対する一種の防衛本能、または抵抗活動と映ってくるのです。

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ネオリベラリズム(新自由主義)
https://w.wiki/Ag5K

1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入を最低限とすべきと提唱する経済学上の思想。1970年以降の日本では主にこの意味で使用される場合が多い。

1982年に首相に就任した中曽根康弘は、「民活プロジェクト」推進を掲げ、民間企業の活力を利用して財政負担なしに社会整備を図り、さらには、日本専売公社、日本国有鉄道および日本電信電話公社の三公社を民営化させた。その後、橋本政権での金融ビッグバンや、小泉政権での聖域なき構造改革による規制緩和に新自由主義的政策は引き継がれる。
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